隣の男

「隣の男」は、相当な昔に絵日記で気が向いた時ちまちま描いていた
畑さんと海野さんのパラレル話です。
終わってませんが設定だけは何となく覚えてます。
無くしたと思ってたテキスト部分を偶然USBメモリーから発見したのでサルベージ。


毎朝、目覚まし無しで6時起きできる
一人暮らしの寂しい独身男。
どこにでもいる普通のサラリーマンです。
まあ、勤めてる会社の扱うお仕事が
暗殺だ諜報だと裏っぽいものばかりだって事が
ほんのちょっと特殊なくらいで。


3ヶ月前。
この、「マンション」なんて呼んだら本物のマンションに殴られそうな
築何十年になる俺の城の隣室に新人が引っ越してきた。

その隣人が、妙に気になって仕方がない。

気になると言っても色っぽい話では全くない。
何しろ相手は男だ。
平日は毎朝8時きっちりにスーツを着込んで家を出て
夜は大体7時頃に帰宅する、
どこにでもいそうな普通のサラリーマン。
俺よりひとつ年下だとは、つい2週間ほど前に
偶然一緒になったゴミ捨て場で聞いた話。
朝っぱらから元気で、爽やかで人のよさそうな笑顔を振り撒いて、
低血圧な俺とはえらい違いだと感心したものだ。

そんな彼が何故、
月に数回帰りが遅くなる日だけ
別人のように酷く荒んだ冷たい気配を纏って帰宅するのか。
何故、あんなに太陽の下で笑ってるのが似合いそうな男から、
時々暗い裏路地の闇みたいな空気を感じてしまうのか。

ただの気のせいかもしれない。
けど、やっぱり気になって仕方がない。

ねえ、あなたホントは一体何者なんですか?


* * *


ひきこもりがちなインドア生活をしてる色素の薄い兄ちゃん。
お仕事はパソコン使う系の何か。
左眼には、多機能の義眼を入れた時に手術のミスで付いちゃった傷有り。
ボーっとしてそうに見えて、実は勘は鋭い。
低血圧。


一番初めにゴミ捨て場で会ったのは、ただの偶然だった。

徹夜明けのぼんやりした頭で「寝る前にゴミ出しとかなきゃ」と辛うじて考え、
ゴミ袋片手にのろのろと外に出ると、ゴミ捨て場に先客がいた。
きっちりとスーツを着込み、ぴんと背筋を伸ばして立つその男。
どうも見覚えがあると思ったら、2ヶ月ちょっと前に越してきた
妙に気になるあの隣人だ。
夜型の自分とは生活サイクルが全く違うらしく
引っ越してきた日に礼儀程度の挨拶をしたきり顔を合わせる事はなかったが、
名前は確か。

「……おはようございます。海野、さん?」
「ああ、畑さん!おはようございます!」

良かった、間違えてなかったらしい。
こちらの挨拶の声に気付くと、清々しい朝がとてもよく似合う爽やかな笑顔をこちらに向けて
はきはきとした声で返事をしてきた。
徹夜明けで体力も限界ギリギリの自分には少々きつい程の元気さだったが、
人の良さそうなその雰囲気にのまれて
そっけなくそのまま立ち去るでもなくぺこりとお辞儀まで返してしまった。


そのまま始まった軽い世間話で年齢の話が出て、
1歳違いだという事が分かって、
微妙に距離が縮まったかなという所でその日は別れる事になった。
「それじゃ、失礼します」
軽く会釈をして踵を返す彼に、何となく小声で
「いってらっしゃい」なんて声をかけてみたら、
彼はそれに気付いて肩越しに振り向き
にこりと笑って「行ってきます!」と片手をあげてくれた。

遠くなっていく背中を見送りながら、
「そう言えば、こんな感じって物凄い久し振りだ」と気付いた。
何だか、妙に気恥ずかしいようなくすぐったいような気持ちになった。



その日から、俺の生活リズムは夜型から朝型へと変わり始めた。
いや、別に深い意味なんてないよ。
ただ何となく。

4.傷の話


歳が近かった所為で何となくよく話すようになり、
たまに互いの家で酒なんか飲むようになった。
最近は、結構親しい近所付き合いしてると思う。

よし。
前々から気になってたこの疑問、
そろそろ聞いてみてもいい頃だろう。


「あの、その傷一体どうしたんですか?」


入社したてで、ほぼ毎日事務にばかり追われている自分にも
月に2・3度入る「お仕事」。
深夜に帰宅して、この壁の薄さでは少々近所迷惑かと思いつつ風呂に入り体中洗い流しても
手と記憶に残る嫌な感覚はなかなか消えてはくれず、眠れそうもない。
(これで更に翌朝の出勤も通常通りだなんて、そりゃ気持ちも荒むというものだ)

覚悟して、全て承知で踏み込んだ道ではある。
しかし、だからと言って辛くない訳ではないし
決して慣れるものでもない。
物理的に暖めた所で
寒さに凍えたように動きの鈍った手は相変わらず硬いままだ。


かたり。
不意に、隣室の物音が耳に入った。
先日ゴミ捨て場で少し話をした1歳年上の隣人はどうやら夜型のようで、
こんな時間でもまだ起きているらしい。
今までぼんやりしていて気付かなかったが
テレビから漏れる賑やかな会話と共に、時折控えめな笑い声が響く。

その、何気ないありふれた音を認識した途端
強張っていた手の力が不意にするりと抜けた。

あれ?

思わず目を見張る。
張り詰めていた神経があっけない程簡単に緩んでしまった。
これまで「お仕事」のあった日は必ず完徹だったというのに、
これでは、短時間ではあるが熟睡できそうではないか。
こんな、ただの騒音にしかならないような隣室からの物音ひとつで。

「……何で今まで気付かなかったかな」
今までの自分は余程余裕が無かったらしい。
何だかおかしくなってくすりと笑い、
洗った髪も乾かさずそのままベッドに倒れ込んだ。


辛くない訳ではないし、
決して慣れるものでもない。
けれど、今夜は取り合えず悪夢を見る事だけはないような気がした。


* * *


結局何が書きたかったかというと
「生きてる人(しかもちょっと知り合い)の気配にほっとしちゃう海野さん」なのですが。

6.名前の話


「そういや海野さんて、名前は何ていうんでしたっけ?」
「え……そ、それは……」

何気なく聞いてみたその質問の内容に、
それまで酒の勢いもあってべらべらよく喋っていた海野さんは突然口篭もった。
そんなに答え難い質問だっただろうか。
もしやあの、時々感じる闇の気配と何か関係あるのかとも思ったが
今隣でどうしようかと焦っている風の海野さんからはそんな薄暗さは全く感じられない。
何だ、これはあんたの秘密とは関係ないんだ。
じゃあ一体何でそんなに言い辛そうにしてんのよ?
暫く様子を窺っていると、うーとかあーとかもごもご言っていた海野さんが
突然意を決したように手にしたビールの缶を握り締めて、
ぼそりと低く、しかしはっきりと呟いた。

「イルカ……ですよ」

イルカ。
「あの海洋生物が何か?」

「いえ、そうでなく。
俺の名前が、イルカ……なんです」

ああ。
うわー。
そりゃ確かに。
言うのちょっと恥ずかしいですよね。
しかも「海野」っていう苗字で名前が「イルカ」だなんて、
海野さんのご両親もなかなか凄いセンスだ。
あまり派手に笑っても失礼かなと必死で笑いを噛み殺していたら、
海野さんに「どっちにしろ失礼ですよ」と睨まれた。

「それにね、イルカっつっても海にいるやつじゃないんですよ。
漢字で書くと入鹿。
うちの両親歴史が好きで。
大昔の、あったかなかったかよく分からないような時代の
よく分からない人物の名前が妙に気に入っちゃったらしくて、
それを子供……っていうか、俺に付けたっていうだけです」
「あ、そうなんだ。
そしたら結果的にこんな面白い響きになっちゃったってワケね」

海野さんは何やら言いたい所がありそうだが、俺としては別にいいんじゃないかと思う。
男にこんな事言っても喜ばれないだろうけど
結構可愛い響きのいい名前じゃないか。
俺の名前に比べりゃよっぽどマシ。

「そういや畑さんこそ。
お名前、何ていうんですか?」

あらら、聞かれちゃった。
まあ話の流れでそう来るのは仕方ないけれど、実は俺も、自分の名前はあまり言いたくない。
言わなきゃダメですか?とちらりと横目で窺うと
何だかいたずらっ子のようにニヤリと笑って
「ここであんただけ言わないなんてずるいでしょ」
こりゃ逃げられそうもない。

……仕方ないね。

「カカシ、ですよ」

「は?あの田んぼとか畑に突っ立ってるあれが何か?」

「いえ、そうでなく。
俺の名前が、カカシ……なんです」


あ、こらちょっと。
そこまで遠慮なく涙まで流して爆笑されたら
流石に俺でも傷つくだろうが!


* * *


名前ネタ。
カカシさん場合、育ての親がちょっと変な人で
生まれたばかりで引き取られた時、
その人が丁度家の前の田んぼにいた案山子を見て
「あ!あれ!こいつに似てるよ!」なんて安易な理由でつけちゃったって事で。
でも流石に漢字は案山子じゃかわいそうだから
嘉樫とか適当に当て字で付けられてるものと思われます。

7.利き手の話


通常右利きですが
お仕事する時に使うのは左手です。

ちょっとしたこだわり。
……もしくは自己満足。

8.傷の理由とある男の過去


その夜は、深く澄んだ空に
美しい白金の満月が浮かんでいるはずだった。


いつものように仕事から帰った両親に
くたくたになるまで武道の稽古をつけてもらって、
「今日はこの辺りにしようか」と微塵も疲れを見せずに言う二人に
「とーちゃんもかーちゃんも明日休みじゃないんだから、
もうちょっと手ぇ抜けよな」なんて文句を返しながら笑い合う。

母が小さな道場を照らしていた明かりを消すと、辺りは闇に包まれた。
「今日は満月の筈なのに。こんな分厚い雲が覆ってちゃ何も見えないわ」
暗闇に目が慣れずまだ何も見えないが、母が残念そうにため息をつくのが聞こえた。

そんな母の声を聞いて
「お前は月を見ながら酒が飲めりゃそれでいいんだろ。明日でもいいじゃないか」と
呆れたように笑った父の気配が、次の瞬間凍りつくように鋭く尖った。
母が息を殺す。
時が止まったかのような静寂が妙な緊張感を生み出す。
秋の冷たい空気が肌を刺すのが気持ち悪い。

いきなりどうしたんだよ?

口を開こうとした瞬間、止まっていた時が怒涛の如く動き出した。

道場の戸が開け放たれ、迫ってくるいくつかの足音。
父が何か叫んでいる。
大きな物音がする。
目はまだ闇に慣れず、何が起こっているのか理解できない。
酷く混乱する自分をぎゅっと抱きしめた腕は母のものだと、
それだけはハッキリと分かった。
不安で、せめて顔が見られればと見上げて目を凝らすと
次第に闇に慣れてきた視界に厳しい眼差しの母がぼんやりと写る。
母は、必死で自分に何かを伝えようと口を動かした。

音で意味を拾い上げる前に、その唇の動きが飛び込んできた。

「逃げなさい!」

理解した途端、右腕に鋭い痛みが走った。
驚いて背後を振り向くと、今度は顔の中央に。
その痛みにますます混乱する自分を庇うように、母は自分を背後に押しやる。

次の瞬間、母の背から何だかよく分からないものがざくりと伸びて
暖かい液体が降りかかってきた。


それが血だと、分かってしまった。
母の背中越しに倒れている父の姿が見えた。


頭が真っ白になった。




そこから先の数時間の記憶は完全に抜け落ちている。
気付いたら自分は裸足のまま、ぼろぼろになって
裏山の奥にある寂れた稲荷の前に座り込んでいた。
破裂しそうな心臓を宥めようと荒く呼吸を繰り返しながら空を見上げると
高い木々の隙間から、赤い目玉が照らし出す濁った色の空が見えた。



その夜は、深く澄んだ空に
美しい白金の満月が浮かんでいるはずだったのに。

9.傷の話2


「俺のはね、この左目の義眼入れた時の手術ミスです」

何でもない事のようにサラリと言うと、海野さんは酷く驚いたようで
「何ですかそりゃ!」と大きな声を上げた。
まあ確かに、こんな派手な傷が残るような手術ミスなんて
自分自身の話意外では聞いた事がない。驚くのも当然か。

「それがね、知り合いなんですが酷い医者だったんですよ。
腕はいいけど物凄い酒好きで」
「まさか、手術前にも飲んでたりして。
それで手元が狂って、とかじゃないでしょうね……?」

恐る恐る、というような微妙に引きつった笑顔で聞いてくる海野さんに
にっこり笑って「その通りです」と返すと、
もう海野さんは驚き過ぎてなにも言えないようだった。
ぽかんと口をあけて、「いいのかそんな医者」と小さく呟いている。

「まあ、いい訳ないですよね普通。
でもその人にはそれまで凄く世話になってたし、
その手術も何と無償でやってくれてたので俺も文句言えませんでした」

それに、こんな傷跡もちょっとかっこいいとか思いません?なんて
安心させるように冗談めかして言うと、
海野さんはやっと正気に戻り「でもやっぱり酷いですよ」と
まるで自分が痛い思いをしたような顔をした。

「それで、海野さんのは?」
何となく沈んでしまった空気を切り替えるように
今度は海野さんに話の矛先を向ける。
顔のド真中に居座っているこの傷には一体どんな過去があるのか。
自分の場合は本当に何となく気に入ってしまって
消そうと思えばいつでも消せるものをそのままにしているのだが、
彼の場合はどうなのか。ずっと気になっていた。
期待に満ちた眼差しを向けられた海野さんは
ちょっと困ったように笑うと「大した事ではないんですがね」と前置きして、
懐かしい昔を思い出すように目元を緩めて語りだした。

「子供の頃、外で走りまわって遊んでたら派手に転んでしまいまして。
丁度その転んだ所に、誰が捨てたのか
割れたガラス瓶が転がってたんです。それでばっさり、ね」

いい歳して未だに調子に乗りやすい馬鹿な自分への戒めの為に
今でも残してるんですよ、と笑う海野さんに
「元気な子供だったんですねえ」と笑顔を返した。
明るく笑う彼の姿は、どこからどう見ても自然でいつも通り。
ご近所の気のいいお兄さん。


……だけど。
一瞬、確かに感じたのだ。
あの薄暗い裏路地の闇のような空気を、
目の前の男の笑顔に。




ああ、海野さん。
あなた今、嘘ついたね。
どうして?



その理由は、まだ聞けない。